質問1に対する回答
⑴ これまでの裁判例のなかに質問1で出てくるような事例は多くありません。しかし、①明示の合意または②黙示の合意により契約内容となっている労働条件、あるいは③職場(事業場)の労働慣行により契約内容となっている労働条件(以上の①②③により契約内容となっている労働条件を「実際の労働条件」という。)と、就業規則に規定されている労働条件(以下「就業規則条項」という。)が食い違っていることは、想像以上に多いのかもしれません。そうした場合には、実際の労働条件と就業規則条項のいずれが優先して労働契約内容となり、権利義務関係として労働者と使用者とを法的に拘束していくことになるのかが確定されなければなりません。
⑵ まず質問1にあるように、会社の代表者と社会保険労務士が就業規則を作成する際に十分な打ち合わせをしなかったため、就業規則の中に実際の労働条件として支給されていない皆勤手当と無事故手当(以下「諸手当」という。)が規定されてしまい、労働者がその就業規則条項を根拠として諸手当を請求した場合、使用者は支払い義務を負うのか、ということになります。
⑶ この点、Y社の顧問弁護士は、⒜労働条件通知書に諸手当の支払についての明示の合意が存在しないこと、あるいは諸手当について不支給の合意があること、また、⒝就業規則条項が誤って作成されたものであることから法的に無効なこと、を理論的根拠として、使用者は諸手当についての支払義務を負わないとしています。
たしかに、⒜については、労働契約も労働条件の設定、変更は合意によりなされるのが基本原則であることは言うまでもありませんので、この点は、事実関係に質問1と異なる事情が存在しない限り、顧問弁護士の言うとおりと考えられます。しかし、⒝についての考え方が誤りです。
⑷ なぜ、顧問弁護士の⒝の考え方が誤りなのかを説明することにします。
就業規則の作成は常時10人以上の労働者を使用する使用者にとっての労基法上の義務とされているのですが、使用者は事業活動の必要に即して労働条件や服務規律等に関するさまざまな事項について自由に定める権限を有しています。したがって、使用者が実際の労働条件では支給していない諸手当を就業規則条項として規定するかどうかの自由を持っていることになります。その就業規則の作成のプロセスにおいて、使用者が、労働者に示した労働条件通知書に記載されていた労働条件の内容を確認・精査せず、労働条件通知書に記載していなかった労働条件(ここでは皆勤手当と無事故手当)を誤って就業規則に規定したとしても、そうした諸手当を含む就業規則が所轄の労働基準監督署長に届け出され、あるいは労働者が知りうる状態に置かれた場合には、一定の法律的な力(法的効力)を持つことになると考えられるからです。
⑸ この点、出水商事(年休等)事件判決(東京地判平成27年2月18日労判1130号83頁)では、従業員が所定労働時間を8時間と認識しており、労使慣行となっていたとしても、就業規則に所定労働時間が7時間30分と規定されている以上、それが誤記によるものとはいえ、使用者には法内残業についての賃金支払義務があることを就業規則の最低基準効(労働契約法12条)を理論的な媒介項として認めています。
⑹ また、私が関わった事案の控訴審(平成28年(ネ)第479号未払賃金等請求控訴事件)においても、使用者は質問1と同様の主張をして、就業規則は無効であると争いました。しかし、福岡高裁(平成28年10月18日判決)は、質問1と同様の主張に対し、この主張を全く無視して、就業規則の諸手当の適用について除外規定がないことと共に、就業規則の最低基準効を理由として従業員の諸手当の支払請求権を認めました。
言い換えれば、このことは、出水商事(年休等)事件判決も同様ということになりますが、就業規則条項が誤って規定されたとか、あるいは誤記があるということは、就業規則の最低基準効の効力発生を阻止する理由とはならないことを意味することになります。使用者の信義則に反する身勝手な主張に対し、裁判所は、”NO”を突き付けているわけです。